あか牛の育種改良
最終更新日 2021/09/21
あか牛の育種改良・種雄牛生産

熊本牧場では、熊本県等と連携して、褐毛和種の優良種雄牛を造成しています。枝肉成績が判明した雌の未経産の雌牛から採取した卵子を用いて体外受精卵を作出する等、多様な素材と高度な技術による種雄牛生産を実施しています。

あか牛の発祥と品種成立過程

社団法人日本あか牛登録協会の滝本会長が取りまとめられたものです。ご了解をいただき掲載いたします。
    (参考・出典) 「30年のあゆみ」(あか牛登録協会、1982)
            「阿蘇郡畜産組合三十年小誌」(1929)
            「褐毛和種について」(農産第8巻第5号、1953、黒肥地)
熊本県のあか牛
古くから「阿蘇牛」、「矢部牛」、「球磨牛」と呼ばれ、天草を除く熊本県一円に広く分布。
阿蘇、矢部、球磨の三大産地は山間地  
・・・・・・・・・・阿蘇の草原は1000年にわたり利用されてきたと考えられる。

古 代
建盤龍命(阿蘇大明神)が阿蘇の湖水を干拓して、田畑を作り、農業を始めた頃から牛馬が飼われていたと伝えられ、あか牛の来歴はかなり古いものであろう。 これらの牛は、朝鮮牛を基にし、それが熊本の気候風土に適応して増殖し、あか牛の祖先が形成された.。なお、江戸時代に南方のゼブーが長崎を経て輸入・交雑されたとの一説があるが確証なし。
明治以降
明治14、15年頃から約20年間、政府の畜産奨励もあり、篤志家によってデボン種種雄牛によるあか牛の改良が試みられた。しかし、当時体格が過大となり、使役にも耐えられないという理由で、デボン種による改良は中断された。
明治33年~大正初期、政府は和牛の改良を外国種との交雑によって行う方針を定め、あか牛の改良はシンメンタール種、ブラウンスイス種を含む数種の外国種が用いられた。
大正3年頃に、地方によって毛色を統一し、従来の赤毛牛と黒毛牛の混養を避けるように農商務省の指示があった。
大正11年頃からはシンメンタール種の交雑を専ら行うようになった。その遺伝的血統は、シンメンタールが25%以下としながら体格の増大と毛色の褐色単一化を図り、経済的な役肉兼用牛を作出するとする明確な改良目標のもと選択淘汰が繰り返され、その結果理想とする褐色単一の役肉兼用牛が作出され、さらに直接検定、間接検定、現場検定、ET(受精卵移植)牛作出などによる改良が進められ、今日のあか牛となっている。
元来、あか牛は役能力に優れ、役牛として名声を博した。
戦後、農業の機械化と牛肉需要の増大に伴って、昭和30年代以降は次第に肉利用に重点が置かれた。
昭和32年頃まで、改良は役能力が主で、産肉能力は従であった。
昭和35年頃から、九州農試、熊本種畜牧場、熊本県畜試であか牛の肥育試験が始まる。
昭和37年頃には産肉能力が主で、役能力は従となった。
昭和41年以降は、明らかに肉専用牛として、増体能力、肉質の向上が改良目標とされた。
昭和42年以降から、わが国の肉用牛を総括した「産肉能力検定事業」として、あか牛の産肉能力の直接検定、間接検定が開始された。
昭和49年に熊本県があか牛種雄牛の集中管理事業を企画したが、黒牛より産肉能力向上改善策の立ち遅れがあった。
昭和50年以降から「肉用牛産肉性向上推進事業」が開始され、熊本県畜産販売農業協同組合連合会によってあか牛産肉能力の現場検定が5年間にわたり実施された。
昭和59年から県産牛に「肥後牛」という銘柄名をつけ、ブランド化に努めた。

これらのことを通じて、あか牛は粗飼料の利用性、増体能力に優れた肉用牛であり、一般に筋肉内脂肪交雑は黒毛和牛にやや劣るものの肉質も良好であり、肉用牛としてのあか牛のアウトラインが明らかになった。
さらに、肉質の向上と斉一化を図り、ET技術を駆使して改良の速度を速めて、今日に至っている。