独立行政法人
家畜改良センター茨城牧場長野支場

家畜改良の推進、優良な種畜や飼料作物種苗の生産・供給等を通じて、
我が国の畜産の発展と国民の豊かな食生活に貢献することを使命としています。

歴史

最終更新日 2017/01/25

Ⅰ:長野種馬所の時代(1906年~1946年)

1.種馬所創設の背景

日清戦争を経て、在来種馬は軍馬としての資質が悪いことを経験し、我が国における馬の改良が始まりました。その後、日露戦争を経て軍馬の改良の必要性が一層痛感されたことから、1904年(明治37年)、臨時馬政調査会が設けられ本格的な産馬の改良に取り組むこととなり、1905年(明治38年)を始期とする馬政第1次計画(30年計画)が樹立されました。この計画は、我が国の在来種馬に外国種馬を交配して、体格の増大と能力の向上を図り、国防上にもまた産業上にも役立つ馬をつくろうとするものでした。この馬政第一次計画は、成功のうちに1935年(昭和10年)に終了しました。この間、全国の種馬所が種付け業務を行い、この計画推進に大きく寄与しました。
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種馬所時代の正門  

2.長野種馬所の設置と変遷

当場は、1906年(明治39年)11月13日馬政局官制に基づき、長野県北佐久郡三井村(当時)に長野種馬所として設置され、専ら種牡馬をけい養しての派遣種付、国有種牡馬の民間への委託貸付並びに馬産に関する諸調査等、馬の改良・増殖を主要な業務としました。
当初の管轄地域は群馬・長野(西筑摩郡・下伊那郡・上伊那郡を除く)・山梨・新潟の4県でしたが、1923年(大正12年)3月、愛知種馬所の廃止により、三重・愛知・静岡および前記長野県の残り3郡を、更に翌1924年(大正13年)12月には石川種馬所の廃止により、その管轄地域の全部、すなわち京都・大阪・奈良・滋賀・岐阜・福井・石川・富山・和歌山の2府7県を併合し、以降その管轄地域は中部・近畿および群馬、栃木の2府14県に及びました。当場の歴史の中で、種馬所としての40年間は、我が国馬産上の枢要機関として重きをなし、中部・近畿地方における馬の改良増殖に寄与するところ大なるものがありました。
1946年(昭和21年)に長野種馬所は廃止され長野種畜牧場となり、牧場けい養種牡馬の種付業務は1949年(昭和24年)3月末で廃止、牧場保管馬は全て種付種牡馬に組替えのうえ各県に貸付されることとなりました。この貸付馬も1954年(昭和29年)をもって各県に譲渡を完了、創立以来約50年にわたる当場での馬の改良業務は終了しました。
このような歴史の中には、特に終戦の1945年(昭和20年)前後は飛行場用地として海軍への26ヘクタールの貸付け、職員の大量出征等による人手不足等からけい養馬の飼料確保に苦慮し、飼料不足から馬の運動量も制限せざるをえなかったこと、派遣種付においても現地での飼料購買が著しく困難となって、出張者は種付所での馬の飼養管理に苦心したこと等の記録が残されています。
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大正時代の牧草の収穫風景 
                           
                           
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種牝馬の派遣種付

Ⅱ:戦後、長野種畜牧場としての再スタート(1946年~1990年)

終戦後の諸情勢の変化により、1946年(昭和21年)に長野種馬所を廃止し、新たに長野種畜牧場が設置されました。種畜牧場となってから、けい養種畜は種雄馬の他に、乳用牛、山羊および種兎の繁養を開始し、また飼料作物種子のもと種子(原種)の生産配布も行うようになりました。

1.家畜について

(1)乳用牛(ホルスタイン、ジャージー)の導入
ア.ホルスタイン種
当場において乳用牛の育種改良事業は、種馬所から種畜牧場へ組織改変された中の第一歩の業務として開始されました。まず、1947年(昭和22年)に農林省畜産試験場よりホルスタイン種の種雄牛2頭、種雌牛7頭の管理換えを受けるとともに静岡県下より種雌牛2頭を購買し系統繁殖を開始しました。しかし、導入した系統に不良因子が存在することが確認されたために同系統の繁殖を中止し、種雄牛を淘汰しました。その後、別系統の種雄牛を導入し、引き続き能力検定を実施しながら改良増殖を行いました。1952年(昭和27年)度における高等登録牛は4頭で、そのうち1頭は9,000㎏を超える成績を得たものの、雌牛群は系統上および体形上に不備な点が多く、期待したような結果は得られませんでした。
1954年(昭和29年)、ジャージー種の繋養開始に伴いホルスタイン種雌牛の繋養は中止されましたが、集約酪農地域指定制度の発足により近隣の乳牛飼養頭数の増加に伴い精液の需要が高まりました。このため、ホルスタイン種については種雄牛のみ繋養し、精液配付を行いました。1957年(昭和32年)には畜産局の方針もあり種雄牛の繋養を中止しましたが、地域の要望もあって1965年(昭和40年)に再び種雄牛1頭を繋養しました。その後、1970年(昭和45年)まで精液配付を行い、当場周辺の乳牛の改良に寄与しました。
このほか、1969年(昭和44年)以降、育種、哺育、育成、検定についてそれぞれの担当牧場を系列化して乳用種雄牛後代検定事業を開始しました。当場は保育担当牧場であり、生産、育成された候補種雄牛を父に持つ民間酪農家で生産された雌仔牛(検定娘牛)を年間約230頭、春期および秋期の2回に分けて長野県、群馬県、埼玉県、神奈川県の4県から購買し、3~4カ月間哺育した後次の段階の育成牧場に管理換えを行いました。この業務も1988年(昭和63年)に終了しました。
イ.ジャージー種
1954年(昭和29年)の酪農振興法の施行に基づき、農林省は集約酪農地域を指定するとともに、当該地域の振興を推進するため、アメリカ、ニュージーランドおよびオーストラリアの3カ国からジャージー種雌牛を輸入して貸し付ける事業を開始しました。当場近隣においても浅間山麓や八ヶ岳山麓の地域が集約酪農地域に指定されるとともに、ジャージー種の導入が開始されました。これに伴い当場も岩手種畜牧場とともにジャージー種の改良に着手し、1954年にアメリカ、カナダより成雌4頭、育成雌4頭、子雄1頭を輸入しました。また、1955年(昭和30年)にもアメリカ、カナダより成明雌1頭、育成雌5頭、子雄1頭を輸入し基礎畜の造成に努めました。その中で、マメ科牧草の過食で3頭が斃死する事故が発生しました。しかし、1956年(昭和31年)には再度アメリカより種雄牛1頭、成雌9頭、子雄2頭を導入したり、岩手種畜牧場から管理換えした種雄牛を供用するなど、ジャージー種牛の改良増殖に努めました。1968年(昭和43年)から乳用種雄牛後代検定事業に係る乳用雌仔牛の哺育育成事業が開始されたことにより、1971年(昭和46年)度にジャージー種の繋養を中止し、岩手種畜牧場へ全頭管理換えしました。

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ジャージー牛の放牧
(2)山羊の導入
種山羊の改良増殖を図ることを目的とし、1946年(昭和21年)に山羊(ザーネン種)の導入を開始し、翌年には有色のトッケンブルグ種を導入しました(トッケンブルグ種は1954年(昭和29年)に繋養を中止)。近年における海外からの山羊の導入としては、1998年(平成10年)に米国より雄4頭、雌4頭を導入しました。また、1970年(昭和45年)の高知種畜牧場廃止以降は、山羊の改良増殖を行う国内唯一の機関として今日まで系統的な改良増殖を企画し、乳用山羊の原々種増成を進めてきました。
家畜の改良は、「家畜改良増殖目標」に基づき行い、山羊について長期多乳かつ大型化を目指しています。当場では、1962年(昭和37年)以降、場独自の目標を定め、1985年(昭和60年)には体型的には目標に達し、泌乳能力においても目標値を上回る成績を示しました。泌乳能力検定については、民間では乳期のいずれかの時期に1日のみ搾乳してその乳量を見る1回検定しか行われていないのに対し、当場では多回検定により240日乳量を正確に把握しており、国内では多回検定を行う唯一の機関でした。また、山羊の凍結精液についてもその生産は国内唯一であり、牛の凍結精液輸送ルートを活用して全国に輸送も行っていました。
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パイプラインミルカーによる搾乳 
(3)ウサギの導入
国立の種畜牧場中で唯一の種兎繋養牧場として、1948年(昭和23年)に日本白色種および日本アンゴラ種の繋養を開始しました。続いて、1949年(昭和24年)にニュージーランドホワイト種、チンチラ種が導入されましたが、1954年(昭和29年)に繋養中止、その後、1965年(昭和40年)にはフレミッシュジャイアント種およびデンマークジャイアント種が導入されましたが、この両品種も1971年(昭和46年)に繋養を中止しました。1972年(昭和47年)以降は日本白色種、日本アンゴラ種の両品種に絞り改良を進めてきました。また、日本白色種については、1985年(昭和60年)度より国内各地域から日本白色種の系統を導入し、農林水産ジーンバンク事業に関連して小型系の日本白色種を維持するとともに中型系の系統造成の材料としても利用してきました。
2007年(平成19年)をもって、ウサギの種畜供給業務は終了しました。
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日本白色種の特性調査
(4)実験動物
ライフサイエンスの進展等に伴い、実験動物としてのウサギやヤギに対する品質の向上が求められるようになりました。具体的には、遺伝的、微生物的(衛生環境的)にコントロールされた高品質なものを系統造成する必要があり、1987年(昭和62年)度からウサギの日本白色種について、1989年(平成元年)度から小型ヤギについて系統造成を開始しました。
ウサギの日本白色種については、1988年(昭和63年)度にSPF(特定疾病なし)化を行いました。1990年(平成2年)度からは大型系(Nlb:JWNL)の配付も開始しました。また、1989年度から大型系よりも体型の小さなウサギを中型系として系統造成を開始し、1995年(平成7年)度に中型系(Nlb:JWNL)の配付を開始しました。また小型ヤギについて、シバヤギを1989年度に東京大学と北陸農業試験場から導入し、実験用としてより小型で多産なシバヤギの系統造成を開始しました。
2007年(平成19年)をもって実験動物の種畜供給業務は終了しました。

2.飼料作物の種苗生産について

(1)原原種ほと原種ほの設置
原種ほとは農家が利用する種子を生産するためのもと種子(原種子)を生産するほ場で、原原種ほとはもと種子(原種子)のさらに元となる種子(原原種子)を生産するほ場のことです。当場では1952年(昭和27年)に原種ほが設置され、1958年(昭和33年)に原原種ほが設置されました。現在の原種ほ・原原種ほ用のほ場面積は、約60ヘクタールです。
採種面積の推移を草種別にみると、原種ほ設置当時は青刈大豆が最も多く、1960年代後半まで原種ほの主要作物として栽培されていました。1970年代からは国内優良牧草品種の育種、海外契約採種の進展もあり、イタリアンライグラス、オーチャードグラス等の牧草類を中心とした原種ほの運営が行われるようになりました。
1985年(昭和60年)から現在まではイタリアンライグラスなどを主体とするイネ科牧草の採種が最も多く、ほかにアルファルファ、シロクローバのマメ科牧草、とうもろこしおよびソルガムなどの種子を生産しています。
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コンバインによる採取ほ場収穫風景
(オーチャードグラス)
(2)種子生産用の主要農機具について
原種ほ設置当初は、ほとんどの作業は人力による作業でした。1960年代後半に入りようやくコンバインや各種精選機械の導入と種子の乾燥・精選施設が段階的に整備されました。1970年代後半にはマメ科牧草採種用に花粉を媒介するハチがよく活動する温室等も整備され、その後もエアードームやパイプハウス等の簡易施設も設置しました。
(3)飼料生産の変遷
当場では1947年(昭和22年)に乳用牛、翌年にはウサギの改良増殖事業が開始されたので、主に青刈類および根菜類の多汁質飼料を生産していました。しかし、1952年(昭和27年)には当場の一部が原種ほ場に転用され、牧草種子生産が増加し飼料生産規模は次第に小さくなりました。
1980年代後半には乳用牛事業が終了し、ウサギの改良目標が実験動物へ移行しSPF飼養となったため、従来の青刈牧草の給与体系からペレットによる飼料体系へ転換しました。粗飼料はヤギ用のみの乾草主体の生産体系へ移行しました。この頃の粗飼料の生産はコンパクトベーラーにトレーラーを牽引し人力による積込み、積下ろし作業を行なう乾草調製体系でした。1993年(平成5年)にロールベール体系に移行し、一部ラップサイレージによるサイレージ給与も行われるようになり、現在に至っています。
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マメ科牧草採種用として使用されたエアードーム
(1991年~1996年)
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ロールベーラによる収穫風景 
(4)牧野改良センター事業
飼料生産業務の関連として1954年(昭和29年)に大家畜生産の基礎となる飼料基盤の確立を目指し牧野改良センターが全国8カ所の種畜牧場に設置され、当場もその1牧場として中部地方(新潟、富山、石川、福井、山梨、長野、岐阜、静岡、愛知)と群馬、三重の11県を担当しました。牧野改良センターは「種畜牧場依頼牧野改良規程」(昭和29年6月28日付け農林省告示第450号)および種畜牧場依頼牧野改良実施要領に基づき運営され、牧野の管理者からの委託契約により牧野改良を請け負い、当場はトラクター3台(ブルドーザー1台含む)、運搬・連絡用自動車2台、ディスクプラウ・ボトムプラウ等作業機12台が導入されるとともに技術職員2名、同補助員2名、常勤労務者1名が配属されました。1962年(昭和37年)に事業が廃止されるまで約600ヘクタールの牧野改良を実施し、我が国の草地畜産の先駆的役割を果たしました。牧野改良に関する基礎的データの調査分析は1962年度から実施された公共事業の草地開発事業を進める基礎となりました。

3.飼料作物種苗の検査証明

(1)OECD種子品種証明制度の実務機関に指定
1967年(昭和42年)に我が国は「国際間で流通する種子の品種証明に関するOECD制度」(以下、「OECD種子品種証明制度」)に加盟し、当場が飼料作物に係る検査証明業務の我が国における唯一の実務機関に指定され、この制度を利用して国内で育成された飼料作物品種の海外増殖、普及を図ることとなりました。
1969年(昭和44年)、当場に種子検査課が設置され、「OECD種子品種証明制度」に係る実務機関としての業務推進体制を強化し、原原種子および原種種子の検査・証明業務を専門的に行うこととなりました。
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OECD証明書
(2)種苗法に基づく指定種苗の表示検査
種苗は外観からだけでは、品質の判定および品種の識別が困難であることから、1978年(昭和53年)に指定種苗制度が定められ、種類、品種、生産地、発芽率等の表示を義務づけ、需要者の保護を図ることとされました。
1979年(昭和54年)、指定種苗に係る表示等について検査指導を行うため、農林水産省畜産局自給飼料課長野分室が当場内に設置されました。1984年(昭和59年)、種苗法に基づく流通種子の検査指導業務が畜産局から当場に移管され、当場の業務として行うこととなりました。
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流通している種苗の集取

Ⅲ:長野種畜牧場から家畜改良センター長野牧場へ

1.家畜改良センター化

我が国の経済社会が成熟・安定していく中で、県や民間における家畜改良体制の整備が進むなど種畜牧場をめぐる状況が変化し、また、行政の効率化が一層求められるようになりました。このような中、1990年(平成2年)に種畜牧場を再編し家畜改良センターが設立されました。福島種畜牧場を本所とし、従来独立して存在した種畜牧場を家畜改良センターの内部組織と位置づけて体制強化を図ることとし、4年をかけて17牧場を1本所11牧場体制に再編整備しました。長野種畜牧場も「農林水産省家畜改良センター長野牧場」と改称し、実験動物としての山羊・兎の系統造成、我が国の風土にあった優良飼料作物種子の増殖、法律等に基づく飼料作物種子の品種証明・検査に取り組むことになりました。
2001年(平成13年)には行政改革の一環として、農林水産省から独立し、独立行政法人に移行することとなり、「独立行政法人家畜改良センター長野牧場」になりました。また、2009年(平成21年)には、家畜改良センター内の組織改編により、「家畜改良センター茨城牧場長野支場」となりました。

2.家畜改良センター時代の新たな業務

(1)ISTA認定検査所として認可
ISTA(International Seed Testing Association、国際種子検査協会)は、種子検査に関する国際的な機関であり、検査方法の標準化や検査所の認定などを行っています。
当場は1979年(昭和54年)から畜産局より業務を引き継ぎ、ISTA指定検査所に指定され、「OECD種子品種証明制度」に基づく品種証明を行う際に、「ISTA規則」に従ってサンプリングおよび種子検査を行っています。
2003年(平成15年)に「ISTA種子検査所認定基準」の要求事項を満たすよう品質システムを構築し、ISTAから認定検査所としての認可を受け、ISTA国際種子分析証明書を発行する権限を取得しました。また、2005年(平成17年)度に2回目の監査が行われ、ISTA検査所としての認定を継続することとなりました。
この他、長野支場では依頼を受けて検査を実施し、証明書の発行も行っています。
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ISTA認定書
(2)カルタヘナ法に基づく遺伝子組換え種子の検査
2004年(平成16年)に我が国でカルタヘナ法(遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律)が施行されました。長野牧場では、農林水産大臣の指示により、飼料作物種子に未承認の遺伝子組換え種子が混入していないかどうか検査する業務を実施することとなりました。

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